常日頃演劇を見る、ということのない私だけれど、ここ最近はダンスや演劇系のプロデューサー氏の知己を得たこともあって、ときどきだが公演を見に行ったりしている。今回は職場の同僚のすすめもあって見に行くことにしたもので、6月の準備公演も見に行った。そういえば、こういった演劇(のようなもの)を最初に見たのは、浪人生の時で、ラジカルガジベリビンバシステムの『時速500円で走る』だった。(その時も高校時代の友人に連れられていったのだった。)というわけで、21年ぶりの宮沢章夫さんの作品、ということになる。「80年代地下文化論」「ノイズ文化論」といった講義録を非常に興味深く読んでいたこともあって、実際の演劇も見てみたいと思ったのだ。(そういえば、去年あたりに私の職場の近くにあるよく行くカレー屋に遊園地再生事業団のチラシだったかが置いてあって、それで同僚とその話をしたのだった。)
 
東京大学「80年代地下文化論」講義東京大学「ノイズ文化論」講義
 
また、テーマに関して、2004年4月に多摩美術大学美術館で開催された「四批評の交差」という展覧会で、私が関わっている美術家堀浩哉さんとのアートユニット、ユニット00(ゼロゼロと発音する)が、椹木野衣さんに小林耕平さんとともに選ばれたときに、椹木さんが設定したのが「ニュータウン」(多摩美美術館は多摩ニュータウンにあり、サンリオピューロランドとベネッセビルに挟まれた場所にある。取材と称して大人だけでサンリオピューロランドに行ったのもいい思い出だ。)というキーワードだったのだが、そのこともあってテーマ的にも気になっていたということもある。
準備公演との違いでは、やはり若松武史さんの存在感が圧倒的で、若松さん演じる「F」が劇を駆動させている、ように見える。映像を劇中にリアルタイムに映し出すカメラマンが狂言まわしのような存在になっていることなどがあげられると思うが、特に前者は、「F」のキャラクターの違いによって見え方がまるで変わってしまうのだな、と実感。
と、そのワーク・イン・プログレスの変化を考えていくと、先日のBRAINZで話したこととつながっていって、思考過程の漸次変化について、自分のいま作っている展覧会についても考えてみる。
アフター・トーク鈴木慶一さんで、「ひとりでやってるとプロデューサー的な存在の必要を感じる」というようなことを話していたと思うが、自分もたしかに学芸員というのはある種プロデューサー的な存在なのだろうが、ひとりで考えているとやはり、誰か冷静な目で方向を見定める存在がいたらなぁ、と感じる時もある。と、いいながら言われた通りにはしないかもしれないけど。
 
この日は、突然昔職場のカフェでバイトしていた人が2年ぶりくらいに訪ねてきたり、最初誰だか判らなかった3年ぶりくらいに会う編集者に終演後に話しかけられたり、歩いてたらばったりやはり職場のカフェでバイトしてた人にあったり、と懐かしい人にばかり突然会うという一日だった。