ツジコノリコが2001年にmegoからリリースしたCD『少女都市』がボーナストラック付きで、『少女都市+』としてリイシューされるようなので、以前彼女について書いた原稿を。少し褒めすぎか?

ただそれだけ


ツジコノリコの音楽を初めて聴いたのは、たしか恩田晃によるスライド・ショーで彼女の《Tokyo》(もちろんそれは後になって分かったことだが)が流れてきたときだったと思う。浮遊感のあるサウンドと、それと一体化しながらときに抗うように存在感をあらわにし、輪郭を浮かび上がらせる歌声。断片的に届く歌詞は、じわじわと沁みてくるような、繊細でひりひりとするようなイメージをもっていて、突き放したような歌唱とともに深い印象を残した。恩田の写真の映像(確か被写体は彼女だった)と相まってそれは僕の耳からしばらく離れなかったのを憶えている。
 ほどなくして2001年にウィーンの異形の電子音響レーベル、メゴからリリースされたCD『少女都市』の中で僕はその曲と再会することになる。メゴとこの未知のアーティストとの出会いには、ちょっとした戸惑いを感じながらも、そこで僕はあのときに聴いた歌声と、そしてこの類い稀なる才能を十分に堪能することになったのだった。
 彼女の歌を聴いていると、ふと「空っぽ」にさせられてしまっている自分に気が付く。それは、彼女の楽曲が醸し出す少女のセンチメンタルとも違う、ある刹那的な虚無感からくるものだろうか。その歌詞は楽曲とともに映像的に伝わってくるが、しかし、それはなにかの像を結ぼうとしながら、抽象的な感情の震えのようなものを伝えてくるのみである。あの凍てついたようなサウンドは、そうした印象をより助長していたかもしれない。
 そして、ケルンのレーベル、トムラブからリリースされた新作『FROM TOKYO TO NAIAGARA』は、これまでよりも歌の比重が大きくなっているように感じる。それは、ヴォーカルがより直接的に聴くもののイマジネーションに訴えかけてくるようになり、一聴してさらに表現力を増し、力強さすら感じさせるものになっていることから伺える。プロデューサーである恩田晃を筆頭に、リョウ・アライ、細海魚、大野ユミコ、ZAKといった錚々たるメンバーの参加により、サウンドはより表現力に富み、むしろ優れたポップスとして完成されたものになっている。収録された《ロケット花火》は、「ベッドに寝ころんでテレビを見ていた」日常的な風景が惨劇へと一変する様子を通して、性的とも解せるイマジネーションが展開される、ロバート・ワイアットの《シー・ソング》に匹敵する感動を与えられる名曲だ、といったら大げさだろうか。
 それにしても、変えられない運命を知りながら少女はなぜ成田まで行くのか? なぜ彼らはただ踊り続けるだけなのか? すてきな靴とすてきじゃない靴をえらんで。もちろんそんなことを訊ねたとしても「ただそれだけ」としか彼女は答えないのかもしれない。けれど、あなたが彼女の歌を聞いて感じとるなにかは、そんな疑問を無化するかのように、よりはっきりとした答えをあなたに用意してくれることは間違いないだろうと思う。

musee 2003年7月20日号 vol.44掲載