Dark Room filled with Light [DVD]


2005年7月にUPLINK Xで開催された、生西康典+掛川康典+永戸鉄也の映像にFilament(Sachiko M 大友良英)のふたりがライブでサウンドトラックを演奏するというイヴェント「Dark Room filled with Light」が先月DVD化された。
そのイヴェントのレヴュー。

「Dark Room filled with Light」- premiere screening and live soundtrack recording -
screening by 生西康典+掛川康典+永戸鉄也
soundtrack by Filament(Sachiko M 大友良英
2005年7月1日(金)UPLINK X



この企画の話を最初に聞いた時に真っ先に想像したのは「退屈さ」だった。もちろん否定的な意味ではない。「光で満たされた暗室」というタイトルから、微弱音と真白に反射する(だけの)スクリーンによる最小限の、非常にミニマムな表現を想像していたのかもしれない。当日は各回30名限定の2回公演で、その2回目を体験したのだが、最大の心配は睡魔との戦いになるのでは、ということだった。もちろんそれは杞憂に終わったが、実際に、開演前の主催者による前口上では、アラーム時計や携帯電話の電源を切ること(マナーモードも不可)、そして、付近に眠ってしまった人がいたら起こすように、ということが告げられた。最近では携帯電話が時計代わりなので、これで演奏中の時間経過を確認することは不可能となった。
フィラメントの音楽、とりわけSachiko Mの演奏にはそのような時間の進行を示唆するものが希薄であるが、一方の大友もターンテーブルの回転によって一定のリズムを生み出す場面もいくつかあったが、基本的には点描的に音を発していく演奏であった。そのため、ここでは映像が時間の進行を示唆するものとしての牽引力を持っていたように思う。また、上映が始まり、会場は暗転し、演奏が始まると周囲の音が演奏の音と等価になって聴こえてくる。また、開演と同時に冷房は切られ、会場の空気は徐々に暖まっていき湿度が侵入してくる。ある意味では忍耐力を強要する、会場の状況などさまざまな要素が観客である私たちの精神状態に作用し、このイヴェントを構成しているかのように思えてくる。
目の前の真白な光を受けるスクリーンに映し出される映像は、微妙な輝度差の変化によって一定のリズムを刻む。細かいパターンの干渉によるものだろうか、あるいは目の錯覚か、白い画面に白いモアレがじわじわと現われでる。そこにロールシャッハ・テストのようなパターンが出現する。白の上に走る白い線条、微かに見える数字、山脈のような白い影、人影のようにみえる画面上の小さな形などが現われては消える。これらの映像は、非再現的な音とは異なり、むしろ非常に雄弁である。
ここで、「soundtrack by Filament」というクレジットに注目してみるべきであろう。映像はすでに完成されたものである。そこでは音楽が映像に対し、どのように関係することができるのか、ということが問われているはずである。ミシェル・シオンが指摘するように、映像と音楽との、その場限りの邂逅とは、たとえば映像と音楽とが「特権的な関係」によって結びつくのではなく、両者が出会う時間と空間における「偶然の一致」において、その場限りの必然性を打ち立てることである。それによってこの両者は、たがいに不可侵の関係として自律することができる。そこには音楽と映像双方に主従関係は生まれない。その意味で、演奏中一度も画面を見ることがなかったというSachiko Mは、非常に意識的にそのことに対峙していたということができるかもしれない。

FADER 11号 2005年 掲載